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イネイブラーの本当の顔



イネイブリングの関係は、夫婦、恋人、友人同士、親子、師弟、雇用関係、政府対国民など人間関係が多様であるように、限りなく多彩です。
イネイブリングは世代や性別にかかわりなく起こりますが、男性よりも女性のほうに多く見られるようです。母性本能に加えて、家族の世話は女性の役割だという社会通念が、女性のイネイブリングを当たり前にしています。また女性は、自分に人生を切りひらく力があるとはあまり思わずに、むしろ他人が自分を頼ってくれるように仕向けることで、伝統的な役割分担を乱すことなく他者をコントロールする力を得るのです。
何らかの援助を必要とする人をケアする立場にある人たちは、イネイブリングの罠にはまる危険があります。特に、心身を病む人を世話するパートナー、親、友人、看護人などは要注意です。適切な援助とイネイブリングの間に線を引くのはなかなか難しいものです。イネイブラーはほんとうは自分の足で立てるはずの人に手を貸してしまいます。

 

イネイブラーは、犠牲者は自分のほうだと思いがちです。しかし、誰かに依存されるという状態は、イネイブラー自らが選んだものに他なりません。どこかで弱々しい依存的な人に捉まってしまい、気が付いたらイネイブラーになっていたなどということはありえないのです。イネイブラーは誰かの世話をするように強制されたわけではありません。労力を上回る報酬が明らかにあるからこそ、イネイブラーは人に尽くします。
この社会は「善人に見える人」を賞賛します。イネイブラーは、自分の並外れた博愛的性格だけでなく、その能力を見せつけます。他の人たちの責任まで引き受けることが出来るのは、実に格好のいいことです。こうして彼らは周囲からの賞賛を集め、うぬぼれを強めます。

 

イネイブリングは、育つ中で身についてしまった生き方です。子供が社会性を持ち協調性のある大人になる過程で、多くの「よい子」が作られてしまうのです。子どものうちは言われたことをやり、周囲の欲求に自分を合わせたりすることでほめられるものです。よい子になることは、回りからの圧力に対処するために子どもが取り入れる、ありふれた手段なのです。人の欲求に答えて何らかの利益を得るという振る舞いは、大人になったときイネイブリングという習慣に引き継がれるのでしょう。他者からの承認というご褒美を得るために行動するようになるでしょう。
よい子は、常にほかの人のことを第一に考える習慣を見につけています。こんな風には育っていない子どもは、自分の想像力や欲求のおもむくままにふるまうという、もっとも健全な喜びを求めます。

イネイブラーは、徳のある立派な人間であろうとします。そして、誰が見てもすばらしい資質をたくさん備えています。順応性、忍耐強さ、犠牲的精神、勤勉、親切、気丈、勇敢、有能、寛大、賢さ―。数限りない「美徳」は、世間の人たちにとやかく言わせません。
 私は、これらの資質に何の価値もないと言っているのではありません。ただ、彼らの努力は注意深く見直す必要があります。それぞれの美徳には、陰の面もあるのです。相手の有能さを見せ付けられれば、人は無力感を抱きます。寛大さは相手に罪悪感を植え付け、親切な振る舞いは相手の負担となるかもしれません。忍耐は、しばしば虐待の誘因となります。柔軟性は物事の限度というものをわからなくさせ、強さは依存を招きます。
 イネイブラーは善人の役を演じ、ときには自分を虐待させてまで相手に快を与えようとすらします。しかし善人を演じることは、本当に徳が高い人間であろうとすることとはほとんど関係がありません。こういう形の善行は、むしろ依存関係を強めてしまうものです。
 この社会では、「人を助けようとする性格」は文句なく賞賛されます。しかし、批判的に観察してみると、その背後にある、あまりほめられたものでない一面が見えてきます。

 子どもの頃、私の家で当たり前になっていることがあり、最近になってやっと私はそれが重要な意味をもっていることを理解しました。
夕食にローストチキンが出ると、母は決まって首の部分をとっていました。だから私は、母は首の肉が好きなんだと思っていて、先日、母と食事をしたときも、当然のように首肉を母の皿に置きました。ところが年齢のせいで正直になったのでしょうか、母は「私、首肉なんて大嫌いなのよ」と言って、私を驚かせたのです。
 母がいわば「チキンの首」を取ることは、我が家の人間関係ではありふれたことでした。思い出してみれば、なにかいいことを分け合う時も、嫌な仕事を分担する時も、母はいつも、誰も手を出さない「首肉」を選んでいました。利己的にはなるまいとしていたのでしょう。その結果、いつでも不利な立場にたつことになりました。
今の私は、公平に誰もが交替でそこに立つべきだと思っています。




忍耐強さ

 友人のジョーの子どもたちときたら、だらしのないこと天下一品で、表彰してやりたいぐらいです。車を修理した後、家に入るや、油でべとべとの靴をカーペットに投げ出し、汚れた服も着替えずにソファーに座る。キッチンに行けば牛乳をコップにドボドボ注ぎ、床に滴をたらしながら2階の自分の部屋に行ってしまう。ジョーは辛抱強く子どもたちの後をついて回り、後始末をします。家屋の召使になることなど、彼女にとっては何でもないことです。
 ジョーはみんなのやったどんなことも我慢します。そうすることで見返りを得ているのです。彼女は 聖人になる一番の近道は、高尚な目的のために受難に耐えることであり、家族の安泰こそ高尚な目的であると信じきっています。そうして、彼女は台所のテーブルについて、散らかり具合を眺め、ドーナツをもうひとつつまんでは体重を増やすのです。
 分別のない相手に対してまで忍耐強い人は、聖人などではありません。自分をいじめているだけなのです。



順応性

 私には、定期的に食事をともにする友人たちがいます。集まると、当然「どこで食べようか」という話になります。ベスはいつも「どこでもいいわ」と言うので、残りの私たちで順番に好きな場所を選びます。その結果、ベスは自分の好きなところには行けません。彼女は周りに合わせようとするあまり、好きなものを選び取る喜びを人に譲ってしまっているのです。
 それは、彼女の親切心から来るものなのですが、そんな親切をする必要などありません。生きていれば、妥協したり妥協せざるを得ない場面はいくらでもあるわけですが、妥協することは、常に他人の欲求に合わせることとは違います。「玄関マット」のように人に踏みつけられるのに甘んじていたら、誰からも尊重されなくなるし、かえって周囲を傲慢にさせてしまうでしょう。



勤勉さ

 依存者と共存しようとする人は、勤勉でなければなりません。このような人たちは家事育児をこなし、家族の雑多な用事を切り回し、依存者たちの欲求や要望に専念し、なんでもこなすので、ときに家族はただ給料を運ぶだけの役割となってしまいます。彼らは2人分3人分…あるいはそれ以上に働くのです。
 ノーマは、私の行きつけのレストランで働いている女性です。彼女をじっと見ていて感じるのは、幸福感と同時に痛々しさです。彼女は疲れを知らないかのようです。店内がすいていると私のところに来て、家族の最新のエピソードを披露してくれます。彼女は働き者ですが、その収入は家族全体の出費にはとても追いつきません。彼女の夫には働く気などさらさらないようです。
 家に帰ると、ノーマは家の掃除と孫の世話をします。おかげで、のんきな彼女の娘は友だちづきあいに明け暮れていられます。「自分を探す」ために家を出たきりの息子は、ちょくちょく小遣いの送金をせびっています。彼らを養うため、ノーマは自分のわずかな収入のやりくりにいつも頭を悩ませています。私が彼女に「どうして、そんな怠け者のために働くのよ(実際はもっとていねいな言葉で)」と尋ねると、彼女は「だって、仕方ないもの」と答えるのです。



有能さ

 夫の友人であるレイは、たくさんの才能に恵まれています。彼は配管工事から家計のやりくりに至るまで何でもこなします。家の中で彼が息子たちとやった細かい仕事の話になると、必ず2つのことが出てきます。1つは、彼が家族のために、何から何までやっているという不満。もう1つは、息子たちのしくじりと笑い飛ばす話。子どもたちは単純な仕事でもへまをするので、いつもその後始末が自分にまわってくるのだと彼は言います。
 以前、レイが車の修理を息子たちに教えているところに居合わせたことがあります。作業の前、最中、仕上げた後と、彼はこまごまと指示します。どうしたらもっと良くできるか、どうしたらもっと完璧になるか、ちがうやり方にはどんなものがあるか、などなど。彼は息子たちのやること全てに口をはさまないと気がすまないようです。はたで見ていれば、なぜ彼が家の仕事を一手に引き受けなければならないのか、すぐに分かります。私は彼の息子たちをよく知っていますが、彼らは父親の「もうひとつ教えておこう」の一言のせいで、自尊心をひどく損なわれています。
 父親は助けを与えているつもりでしょうが、息子たちに「自分は無能だ」と思い込ませているに過ぎません。



気丈さと勇気

 イネイブラーは、来る日も来る日も勇気をふるって災難というドラゴンに立ち向かっているようなものです。自分に向かってくるドラゴンだけでなく、夫や子どもたち、友人に向かってくる分まで。
 イネイブラーの子どもは、自分で戦う必要がありません。ママがやってきて、先生や校長や他の子の親と話をつけたり、いじめっこをやっつけたりしてくれるからです。イネイブラーの夫は、自分で上司と向き合わなくてもいいのです。妻が、夫にもう一度チャンスをくれるようにかけ合ってくれるからです。友人たちも、イネイブラーがやってくれるので、PTAのレポートを提出しなくてすみます。
 イネイブラーの古典的な例の1つは、夫のサンドバッグにされていたアルコホリックの妻です。彼女は強い女性です。強くなくてはならないのです。殴られても殴られても、また殴られに行くために。進んで拳骨の前に行くには、勇気がいります。非行中年の夫を探して、夜中に危険な界隈のバーをめぐり歩くのだって、勇気がいるでしょう。翌日、夫の上司に電話で夫が「風邪をひいたので」と嘘をつくにも度胸を要します。
 こういう勇気は、彼女にとっていちばん頼りになる味方かもしれませんが、他人の弱さをかばうためではなく、彼女自身を守るためにこそ使われるべきでしょう。



寛大さ

 イネイブラーのもっとも際立った美徳は、寛大さです。「過ちを犯すのは人間。許すのは神。」この設定で、誰がどちらの役を取るのかは明白です。イネイブラーは自分が傷ついてしまったとき、こうして割り切ることで自分の居心地を良くし、また、自分に都合のいい考え方をして、独りよがりのプライドを手にします。イネイブラーはあたかも許すような顔をして―というのは、イネイブラーのしていることは、本当に人を許しているのではないから…。一生その人を苦しめ続けるような深い罪悪感を植え付けます。
 私は、母が、父のことを何度も許していたのだと思っていました。でも、母が本当に父を許したのは、父が亡くなってからだったのではないかと今は思っています。



賢さ

 どのような依存関係も、その実態はちょっと見ただけでは分かりません。傍目には、イネイブラーはしっかりした、判断力と常識を兼ね備えた人に見えます。それに対し、依存者は見るからに頼りない感じです。自分自身を荷物馬のようにこき使っている人が聡明に見えるとは、皮肉なものです。もし、イネイブラーが本当に賢いのなら、なぜ、そうやすやすと依存者の思い通りになるのでしょう。奴隷のように働かされ、サンドバッグにされ、カモにされ、玄関マットのような扱いをされるのが賢明なことでしょうか。
 最近、仕事である年配の紳士と会う機会がありました。話をしている間中、彼は自分の会社の将来が心配だとこぼしていました。彼が言うには、事業を黒字に出来る才覚のあるのは、仲間の中で自分だけなのだそうです。そのため彼は、仲間たちを誰一人会社の方針決定に参加させたことがありませんでした。彼はもう引退したいと思っているけれど、それは出来ないのだと言います。彼の仲間たちは、彼には「優れた判断力」があるから、引退してはいけないと主張しています。結局のところ仲間は、「自分にしかこの仕事はこなせない」と彼に信じ込ませて、自分たちはのんびり優雅に暮らしているのです。世間は彼を良識ある人だと思うでしょうが、私には、仲間たちにうめく言いくるめられているとしか思えません。



愛情

 イネイブラーに、「あなたはなぜ家族の機嫌をとったり、心配したり、手助けをしたり、世話をやいたりするのですか」と尋ねると、彼らは一様に驚いた顔をします。彼らにとって、それはあまりにも当たり前のことなので、自分とはちがう考え方の人がいるなどとは想像もつかないのです。その質問自体が屈辱です。愛ゆえにかれらは人に尽くします。自分を「必要としている」人のためなら、どんなことでもするでしょう。イネイブラーは強力な防護壁を造り、愛する人々を覆ってしまいます。相手が息苦しくなっているとも知らずに。愛にさえ、ネガティブな面があるのです。
 
私の同僚のヘレンには、32歳になる魅力的な娘がいます。ジェニーという名で、ヘレンと一緒に暮らしています。ジェニーはヘレンの生きがいです。二人の仲のよさを見ると、彼女が自分の娘をどんなに愛しているか、誰も目にもよくわかります。ヘレンはよく娘を旅行に連れ出し、服や贅沢なものを買い与え、できる限りの方法で自分の愛を示します。
ヘレンはとても幸せな人です。ジェニーの目には、かすかに絶望の影があります。彼女は、ママの大切な人形なのです。母親の善意と献身を一身に負わされているゆえに、彼女は母親から離れることが出来なくなっています。娘の絶望感に気付いていないヘレンを見ていると、本当の愛の姿とは一体なんなのかと考えてしまいます。ヘレンは、どんなものでも娘に与えることでしょう―自由と独立以外のものなら。





 イネイブラーは自分の価値を感じるために、常に美徳あふれる人格者であらねばなりません。そのためにはいろいろな形の犠牲が必要です。シンプルで当たり前の付き合い方では満足が得られないのです。自分の欲求は抑えるか、あるいは無視しなくてはなりません。対等な立場で人と交流し、理解しあっていくという誠実な道をとらないので、怒りも飲み込んでしまわなくてはなりません。もしイネイブラーが依存者に虐待されているとしたら、自分で行動を起こさない限り、その屈辱感と傷が絡み合い、痛み続けることでしょう。
 殉教者、犠牲者、そしてスーパーヒーロー―信じられないでしょうが、これらが混在しているのがイネイブラーの姿です。私たちの続けているゲームは、勝者のいないゲームなのです。