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『岩井さんに出会えたことで』

K.W

 

 覚醒剤乱用で長男(現在26才)は少年刑務所に入っています。そして私(母親)は、びわこ家族会に毎回通うようになってそろそろ1年が経ちます。ナラノンの先行く仲間に誘われるままに第一回のびわこ家族会に参加したのは昨年の3月22日でした。膳所市民センターの会議室の中にはたくさんの家族の方達が来られていました。そこで初めて岩井さんの話しを聞きました。ナラノンや別の家族プログラム等で薬物依存に関して少しは知識を得ていましたが、そこで聞く岩井さんの話は強烈に私達夫婦に飛び込んできました。刑務所をでたらダルクに繋がるか、又刑務所に戻ることになるか、あるいは死体置き場にころがるか?頭の中では理解できていた事なのですが、さて親として実際、息子の為にとるべき行動はとなると先延ばしにしてしまう現実です。今刑務所に居る時こそダルクに繋げてあげるチャンスなのだ。息子と縁を切ることが出来るか?岩井さんに問われた時、
「頭では判っているのですが、伝えるのが辛いです。」
と涙がこぼれてしまった。すると思いっきり岩井さんに怒鳴られた。
「子供を殺したいのか助けたいのか?」
そりゃ助けたいに決まっています。今まで息子のために良かれと思って取った私の行動すべてが裏目にでて、もう息子に何かをしてあげようという自信もすべて失っていた時です。息子と縁を切るしかないか?
3月24日、主人と二人大阪拘置所に面会に出掛けました。息子は私達の顔を見るなりうれしそうに
「来てくれたん?有難う。きのう手紙出したんやで。」
私も主人も次の言葉が出て来なかった。しかし主人が口火をきった。
「今日はお前に伝える事が有って来た。お前にとってもお父さんお母さんにとっても大事な事や。お父さんとお母さんはダルクの家族会で薬物依存の事を勉強させてもらっている。お前が刑務所を出たらダルクに行くか?一人で暮らして自立するか?また薬を使ってしまって刑務所に入るか?その三つの選択しかない。もう家には帰って来れないと思ってくれ。お父さんもお母さんも身元引き受け人にはなれない。手紙を出してくれても、もう返事は書かないから手紙は出していらない。」
はっきり主人は3度繰り返して伝えました。息子に伝えるには胸がつぶれる。3度目には主人の目からも涙がこぼれていました。息子も最初は突然の事で理解しかねる様子でした。でも私と主人の顔をはっきり見つめて
「わかった。」
と2度はっきり言いました。全く怒った風もなく覚悟していた感じでした。別れぎわ、お互い
「体に気を付けや。」
としか言えませんでした。その時の息子の表情はいまでも私の目に焼きついています。
拘置所の塀に沿って帰る道すがら、二人とも涙が止まりませんでした。おまけに雨が降ってきて、雨と涙と鼻水でぐしゃぐしゃの情けない中年夫婦が仲良く手をつないで歩く姿はチョット不気味!  きっとこれがいい事になると二人で何度も確認し合いました。息子はきっと立ち直れると信じる、親は無力であると理解できた、手から離して見守る・・・・この三つを頭の中で繰り返しながら、今日の事を確かに良かったと思える様になるまで家族会に出続けようと決心しました。
もう息子からは手紙はきませんし、私達からも出しません。びわこダルクの猪瀬さんに身元引受人になって頂けるように息子が手紙を出したと聞きました。息子はダルクの仲間の方達にお任せして私達は家族会でしっかり学習させて頂いております。また自分たちの家族の再構築も少しずつではありますが、前進している様に思えます。今では毎月の家族会はとても楽しみにしています。昨年8月のびわこ家族会参加前日には主人と共に比良山に登りました。頂上で食べたおにぎりの美味しかったこと!今の私達夫婦にとっては最高の贅沢です。もうこんな平和な日は来ないと思っていました。

息子が仕事に行くと言って出かけたきり家に帰って来なくなったのは4年前の事でした。当時の私たちは家族として全く機能を果たしていませんでした。そしてそのことすら気付いていない状態でした。表面だけ取り繕っていたのです。子供達はとっくに気付いて信号を送っていたと思います。行方不明になるチョット前に長男が私に話しかけた言葉が有ります。子供達が小さい頃はよく正月にはスキー、夏は泳ぎにと家族旅行に出かけていたので、
「もう一回家族みんなで旅行に行こうや。」
と言ってきました。その時の私の答えは
「いまさらそんな事出来るわけないやろ。」
その一言で、私は全くその話にのらなかったのです。何故なら主人とは家庭内別居で家族旅行なんて考えられない状態でした。息子は私たち夫婦のことに心を痛めていたのでしょうか?それともその時期も薬を使用していたのであれば、自分も何かの機会に薬を止めようと考えていたのでしょうか?  2~3日後息子は仕事に行くと言って家を出かけたきりそれ以後約2年間、平成14年4月まで帰ってこなかったのです。  
そして長男が覚せい剤中毒者であると知ったのもその平成14年4月でした。平成12年の8月から行方不明届けを警察にだしていた長男(当時22才)から突然に電話が入ったのです。
「ヤクザから逃げてきた、知り合いの車で送ってもらって今から帰る。」
驚きと喜びと不安が入り交じった感情の中息子は帰ってきました。居なくなった約2年間は警察に行ったり、四天王寺の身元不明人探しに行ったり、福岡に居るとわかるとその住所に尋ねていったりしましたが結局は会えませんでした。不安な毎日でした。その息子が今自分の目の前にいると思うと、どう云う状態であれ、ただうれしくて仕方がありませんでした。
でも2~3日で私の喜びはあえなく奈落の底に突き落とされました。なんかおかしい?なんかおかしい?自分の心の中で考えたくないのに不安がふくらんでゆき、それが的中してしまったのです。  突然警察から連絡が入り、息子が覚せい剤所持で捕まった事が分かりました。
「ヤクザが追いかけてくる。」
と言ってブロックを持ち上げている息子をみた通行人が警察に通報してくれました。それからの私はなんでこんな事になってしまったんだろうと自分を責め続けたり息子を恨んでみたり・・・・。
警察に留置されたと聞いた時は、2年間の空白を埋めたいのと、なぜ突然行方不明状態になったのかを聞きたくて何度も面会に行きました。でもガラス越しの面会ではあまり話をする事もできません。  そしてまさか自分がテレビで見る様な留置所での面会シーンを息子とする事になろうとは考えもしませんでした。ここまで落ちてしまったのかと情けないでした。しかし息子をこんな状態に追い込んだのは自分達夫婦なのではないかと思うと息子への謝罪の気持ちで一杯でした。息子からも反省の気持ちをこめた手紙が届きました。今ならそれが意味のない事であると理解できるのですが、その時は薬物に対し全く無知な状態なので何ヶ月か留置されていたらだいぶ良くなるんだろうくらいにしか考えていませんでした。だから裁判の時も情状酌量証人に立って
「今後の息子に対して親が愛情と責任を持って守って行きます。」
と答えました。それが息子にとって一番いい事だと信じていたのです。そして執行猶予5年懲役2年6ヶ月と云う判決で息子が家に帰ってきました。
「家族みんなでもう一度出直そう。」
そんな事も話しました。私は仕事もやめて常に息子の側について世話をやき続けました。それが息子への愛情だと勘違いしていました。以前に息子が言っていた家族旅行が常に引っかかっていたので、淡路島へ旅行を兼ねて一泊二日の釣りにも出かけました。お互い変に気使いながらの旅行でチョットしんどい状態でしたが今思えば懐かしいです。同じ場所に居るのにまるで息子は私達を少し離れたところから見ているような雰囲気がしました。カメラをむけるとさびしげに照れ笑いをしていました。  
やはり薬物依存症という病気にかかっている息子にとって薬はやめられなかったのでしょう。淡路島から帰って1週間もしない内に外泊する様になりました。私はまた息子の携帯に何度も何度もストーカー的な電話を入れます。やっと繋がった時は以前の様にどなっている自分がいました。 
「今度捕まったら本当に刑務所行きやで・・・どうするの!」
地獄の底から振り絞る様な低い声で電話をしています。自分では全く気付いていないが、私自身が狂気だったのです。
4月に捕まり6月裁判。そして7月中旬に家に帰ってきて8月後半に警察官に挙動不審で質問され尿検査を受けてしまいました。そして結果がわかるまでの間自宅待機。薬の反応が出ることは息子が一番よく知っていたはずです。そして警察からの電話待ち。その時期はバカみたいに息子の好きなものを作って食べさせたり、家族でビデオをみたりとみんなが警察からの電話をびくびくしながらも何だかこころを寄せ合ってすごせた最後の時期だった様に思います。そして週末警察から電話がかかってきました。
「お母さんやはり反応がでましたわ。でも今日は土曜日なので最後の週末を家族で過ごしてあげてください。月曜日に向かいにゆきます。息子さんに気付かれないようにしてください。お母さんを信じてますのでね。」
有り難いような複雑な気持ちでした。
息子は敏感になっていたので気付いていたかもしれない。前以上にやさしい母親の態度ははっきりいって正直すぎます。息子から
「もし薬の反応が出ていたら警察に出頭しないといけないから、交通警察に支払う期限が明日までなので違反金を支払うために自分を車で送って欲しい。」
と頼まれました。私は迷いました。今さら違反金を払ってもどんなもんか?しかし薬に関して無知な母はOKしてしまいました。そして車で息子を送って新大阪の交通警察まで行きました。正面玄関のところに車をとめて建物の中に入っていった息子の後ろ姿を目で追いながら不安がよぎった。やはりいくら待っても息子は出て来ませんでした。体から血の気が引いていったのが分かりました。私は建物の中に入り受付で名前を伝えて息子が来たかを確かめました。やはり息子が違反金を届ける事にはなって居た様で、母親の私が代わりに届けにきたと担当官が勘違いした様子。私が血相を変えて
「息子が来なかったか?」
とたずねたことで事情を察し、
「まだ来ていません。」
と答えてくれました。その後はどのようにして車に乗って家に帰ったか、まるで放心状態でした。突然息子から私の携帯に「心配かけてごめん・・」とメールが入りました。
「なんで?なんでやの?」
私は運転しながらも、涙がとまりませんでした。 
主人は、
「なんで警察の中まで一緒に付いていかんかったのや!」
と怒鳴ります。自分でもなんで側にずっ~と一緒に居なかったんだろうと後悔もしました。そしてまた薬を買うお金を持たせてしまったのだとやっと気付きました。そんなチャンスを与えてしまった自分自身を責め続けます。私の行動はすべて息子にとっては良くないことに繋がると感じました。警察の人からは
「お母さん逃がしたのではないでしょうね?」
と言われました。でも逆恨みかもしれないが、変に情けをかけられずに土曜日でも警察に連れて行かれた方が良かったのにと、その時は思いました。その後、何度も息子の携帯にメールを送り続けたが、返事は帰って来ませんでした。9月がすぎ、10月の息子の誕生日、夫婦二人だけで祝いました。そして11月に息子は覚せい剤の売人の側にいた所を逮捕されました。
 この頃にはナラノンにも出かけ様々な家族の方たちの話にも耳を傾ける様になっていました。今まで自分が良かれと思ってとった行動は、心ならずも息子にとってはプラスに繋がりませんでした。けれどそれらの様々な出来事を経てこそ気付かせて頂けた事がたくさんあるということもやっと判ったのです。薬物依存症の息子と向き合った期間はたった5ヶ月。そしてどっぷり向き合えたのは1ヶ月だけ。親元を離れた2年間、息子は一人で薬と戦ってどうしようもなく家に帰ってきたのでしょう。 ほんの数ヶ月ですが、家族でどっぷり向き合える課題と時間を与えてくださった神様に今感謝しています。これからは息子が刑務所に入っている間に親として学ぶべき事を積極的に受け入れて行きたいと思っています。親は薬を使っている息子には無力であると判りました。でもいつかは立ち直れると信じ、息子を手から離し見守ってゆく決心がやっとつきました。
昨年の3月にびわこ家族会で岩井さんに出会えてから様々な事を教えて頂きました。 
これからは、私達夫婦の棚卸を始めて行きたいと思っています。チョットお互い厳しい内容になるかもしれませんが少々の事ではもう潰れない夫婦になっていけそうです。我々の愛すべき薬物依存症の息子のお陰で・・・・。そして私たちは自分より偉大な力が、私たちを正気に戻してくれると信じるようになれたのです。有難うございました。 

2004. 2.28

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